谷崎潤一郎 新々訳 源氏物語 書き起こし

谷崎潤一郎 新々訳 源氏物語の書き起こし

例言

一、この書は独立した一箇の作品として味わってもらうのが本旨であって、なるべく現代人が普通の現代作品に対するように、一字一句の詮索に囚われずに、安易な気持ちで読んでもらいたいのである。それゆえ、本来ならば頭注なども施したくはないのだけれども、全然省略するのも不親切であるし、実際において不便でもあるから、やはり説明があった方がいいと思われる事項には、注を加えることにした。しかしこの書を読むくらいの人なら当然知っていそうなこと、知らないでも読んで行くうちには自然と会得しそうなこと、または字引を引きさえすれば容易にわかるはずのことなどは、そのままにしてあるところもある。
一、たとえば、本文の中にはしばしば古い詩の文句だの和歌の文句だの一節を引用したり、またはそういう故人の作に基づいて和歌を詠んだり、洒落を言ったりしているところがある。それらは、そのもとの詩や和歌を知らないでも、「何か典拠があるんだな」と思い及びさえすれば、大体何を言おうとしているのか察しがつくはずのことだけれども、でも知っていれば一層理解を助けもし、感興を補うことにもなるので、ごく簡単に出展を挙(あ)げ、長い詩などはその前後の数節を、和歌はその一種の全体を記すことにした。ただし、和歌の場合に原典が明らかでないものは、〔花鳥叙情所引〕〔川海抄所引〕という風に、それを引用している注釈書の名を挙げた。
一、この物語の中で、一番読者が混雑を起こしやすく、したがって、一番説明を要するものは、登場人物の呼び方であると思う。現代人が考えると不思議なことなのであるが、この大長篇の中に出てくる多くの人物のうちで、本当の名前が分かっているものは極めて少ない。主人公である源氏の君にしてからが、源姓であることは分かっているが、源の何と言う人であったか、その正しい名はどこにも挙げていない。「光君(ひかるきみ)」というのは、時の人が渾名(あだな)をつけてそう呼んだというだけなので、もとより本名ではないのであるが、その渾名ですら、この人を呼ぶのに用いられている場合はほとんどない。宇治十帖の主人公の「薫君(かおるきみ)」なども同様である。男子がすでにそうであるから、女子はなおさらで、「紫の上」とか「空蝉(うつせみ)」とか「夕顔」とかいう名は、おそら物語の世界での渾名でさえもなく、作者が便宜上そう呼んでいるに過ぎないように察せられる。渾名でも仮の名でも、とにかく名前らしいものがあるのはいいが、大部分の人物にはそういうものすらも与えられていない。ではいかにして人と人とを区別するかというのに、男の場合は「左大臣(ひだりのおとど)」とかいう風に官名をもって呼び、女の場合には「どこそこのおん方」という風に、その人の住んでいる御殿、場所、方角等を上に被(かぶ)せて呼ぶことが多い。しかしこの物語のように数十年にわたる出来事を取り扱った小説の中で、そういつまでも一人の人物が同一の場所に住んでいたりするはずはないので、自然この呼び方ははなはだ紛らわしいことになる。たとえば、「頭中将(とうのちゅうじょう)」「尚侍(ないしのかん)の君」などという名で呼ばれている人はその時々によって違って来るわけで、源氏の君なども、最初のうちは「中将の君」であるが、追い追い「大将の君」になり、「大臣」になるという具合である。その上女房にも「中将の君」や「少将の君」などと呼ばれるのがあり、また「右近(うこん)」だの「侍従(じじゅう)の君」だのという同名異人が、同じ場面へ出てきたりする。そこで、古来の源氏の注釈家たちが、「柏木」とか「夕霧」とか「真木柱」とか「玉鬘(たまかずら)」とかいうように、篇中の重要人物にそれぞれゆかりのある帖(じょう)の名を附けて呼んでいるのは、この混雑を防ぐためであって、原作者の知ったことではないのであるが、私も頭注にはそれらの昔からの言い方を踏襲して、紛らわしい人物を指示することにした。ただし、人の名をそれと露骨に指(さ)さないで、関節な方法で言い現わすことは、今もわれわれの一部に残っている奥床しい習慣の一つであるから、本文はどこまでも原作の言い方に従っている。
一、一度頭注を施した事項でも、読者の便宜を慮(おもんばか)ってところどころ説明を繰り返してある。
一、和歌は、散文に訳しては講義に堕してしまうし、そうかといって、現代風の和歌に直すことは、私の技倆では覚束(おぼつか)ないし、また専門家を煩(わずら)わしてそういう試みをしたとしても、恐らくはこの物語の世界の空気とは調和しないものになるであろうから、原作のまま載せることにした。それで、その和歌の解釈を頭注として書き入れてあるが、私は読者が、往々にして相当の長さになるであろうその注を読むために、そこでいちいち停滞しないことを望む。この物語の中の和歌は、それが挿入してある前後の文章とのつながりが非常に微妙にできているので、そのつづき具合の面白さを味わうことが、和歌の内容を理解するのと同等に大切なのであって、この訳文では原文のようには行なっていないとしても、なるべくそこでつかえないですらすらと読みつづけてもらいたいのである。読者はくれぐれも、これらの和歌の価値の一半がその調子にあることを念頭に置き、時として意味が分からないことがあっても、調子の美しさが感じさえすれば、その場は一応それでよいとして、先へ進んでもらいたい。しかし一巻を読み終った後に、頭注の解釈を参照して、もう一度そこのところを読み返して下さるならば、さらに一層感興が湧(わ)いて来るでもあろう。
一、普通、現代小説の登場人物の年齢は、何歳ということがはっきり断ってなくても、読めばおおよそ想像がつく。この物語の場合でも、原作者と同時代の人が読んだ頃には、そうであったろうと思うが、今と昔とでは「幼年」や「老年」の言葉の内容が大変違うので、現代小説のようなつもりで見当をつけると、考え違いをすることが多い。この原作者は、主人公の年齢を毎年書き留(と)めているわけではないが、五十餘歳で死ぬまでの生涯を述べる間には、今年何歳になったということを記している箇所もあるので、これに基づいて計算していくと、何の巻の頃にほぼ何歳であったということが分かる。また主人公と深い関係のあった婦人たちの年齢なども、大概分かるようになっているのであるが、ここでは、せめて主人公の年齢だけを、あまりうるさくない程度に、ところどころ書き入れて、読者の注意を促すようにした。

新々訳源氏物語序

 今から三十年前、昭和十年の九月に、始めて源氏物語の現代語訳という仕事に取り組み出してから、十六年の七月に二十六巻本の旧訳を訳了し、二十九年の十二月に十二巻本の新訳を訳了したので、今度の新々訳は三回目の翻訳である。というと私は、いかにも源氏きちがいのように思われそうであるが、その実そんなに源氏のことばかり念頭にあったわけではない。長いこと源氏のことは忘れていた時代もある。しかるに先般、中央公論社が」「日本の文学」の第一回として私の作品集を出版するに当り、枉(ま)げて仮名遣いを新仮名にすることを承諾してくれと言われて、津に私は節を屈することになった。それが今回源氏の新々訳を思い立つに至った事の起こりである。
 古くは与謝野夫人の訳を始めとして、今日では源氏物語の現代語訳は数種類ある。今さら新々訳でもあるまいといわれそうだが、翻訳者の身になってみればそうでもない。私以外の翻訳者の訳文は皆新仮名遣いになっているのに、私のものだけが旧訳も新訳も旧仮名になっている。すでに私の創作集の一部が「日本の文学」の一冊として新仮名に改められて発行され、やがてはその続刊も発行されようとしているのに、谷崎源氏が依然として旧態を墨守(ぼくしゅ)し、そのために若い読者層から疎(うとん)んぜられているとすれば、翻訳者の私はやはり寂しい。私とすれば一人でも多くの人に谷崎源氏を読んでもらいたいのが本心である。それでなければせっかくの仕事の意義がない。
 それから、旧仮名を新仮名に直すついでに、穏当を欠くと思われる解釈はつとめて書き改め、最近の専門学者たちの研究を参考にする意図もあった。次に難解な漢字はせいぜい使わないようにもしたかった。昭和二十九年に訳了した十二巻本の新訳は、二十六巻本の旧訳に比べればあれでもよほど現代人に分かりやすいように、丁寧すぎる敬語等を省いて簡潔を期したのであるが、近頃の人にはあれでもまだ丁寧すぎ、廻りくどすぎるきらいがあるので、できることならあれよりも一層敬語を減らしたかった。しかし、敬語は日本語独特のもので、われわれの言葉の美点でもあり、人情風俗心理等にも関係するところが多いので、それを全く捨ててしまうことは不可能である。ただどの程度に保存したらいいか、その兼ね合いがむずかしい。人によっていろいろの意見があろうが、私は私の物差をもって測ることにした。
 物差といえば、敬語の問題ばかりでなく、源氏の現代語訳にはさまざまの物差が要る。過去の幾種類かの翻訳者にはいずれもそれぞれの長所があって、大いに参考になるのであるが、私の場合、この作品は平安朝の上流の女性が作った写実小説であるという点に最も重きをおいて訳した。現代人に分からせることは大切であるが、そのためにみだりに意訳を試みて平安朝の気分を壊すことをしなかった。旧訳の序で述べた通り、「これは源氏物語の文学的翻訳であって、講義ではな」く、「原文と対照して読むためのものではない」のであるが、でもそのことは、「原文と懸け離れた自由奔放な意訳がしてあるとか、原作者の主観を無視して私のものにしてしまってあるとかいうような意味では、決してな」く、「少なくとも、原文にある字句で訳文の方にそれに該当する部分がない、というようなことはないように、全くないというわけには行かぬが、なるだけそれを避けるようにし」てあるので、「原文と対照して読むのにも役立たなくはないはずであり、この書だけを参考としてでも、随分原文の意味を解くことが出来るようには、訳させていると思う」のであって、その点は前二回の翻訳と同様である。
 旧訳の時に私を助けてくれた長野草風画伯と相沢正氏とは、中央公論社の前社長長嶋中雄作氏とともに新訳出版の時にはすでに亡く、ひとり山田孝雄博士のみ健在であったが、今や山田博士も逝き、かろうじて生き残っている私も七十八歳である。ただ幸いに第一回の旧訳以来校閲の任に当たって下さった山田博士と、新訳の時の玉上博士との業績があるお蔭で、この新々訳の仕事がどんなに餘沢(よたく)を蒙っているかもしれない。前回の時に玉上博士とともに力を貸してくれた榎氏と宮地氏の労も忘れられない。ところで今回は中央公論社中の滝沢博夫氏と伊吹和子氏とがこの老骨を助けて、往年の榎氏と宮地氏の代わりをしてくれることになったが、あまり多くの人の力を借りないですむようになったとすれば、これもひとえに過去の先輩や新進学徒諸子の積み重ねられた業績に負うのである。
 地模様、装釘(そうてい)、題簽(だいせん)、中扉の文字等については、旧訳の際の長野草風氏を始めとして、前田青邨氏、尾上紫舟氏、田中親美氏、小倉遊亀氏、町春草氏、谷崎松子等々、版を新たにする毎に執筆者を変えることにしていたので、今回は特に乞うて安田 彦氏にお願いし、装釘と題簽と中扉の文字とを揮毫(きごう)していただくことにした。そして、地模様を廃して、昭和三十年出版の五巻本以来用いている十四画伯の手になる五十六葉の挿画を、今回も使わしていただく。これは安田 彦氏、前田青 氏以下東西の著名な一流画家が各々(おのおの)四葉ずつ作品を寄せられたもので、現代いかに版を新たにしても、これ以上の源氏絵巻は他に求め得られないからである。

 むらさきのゆかりの色にもえいでし
   花のえにしのわすられなくに

昭和三十九年十月
  湯河原 おいて
      潤一郎しるす